おもにナンセンス漫画のぺちぺちくんである。ナンセンスであるから無意味かというとそーでもないものもあるが、さらにぺちぺちくんではない漫画もないわけではないのである。まあ、大爆笑するかどうかはそれぞれの感性であるので保証しかねるが、小爆笑ぐらいはするかもしれないのである。
ポツンと一軒家の子8
まあ、なんだ、某ツイッター上で、前回のネタのあたしの体調不良はなんだったのかというご質問があったので、つらつら解説するわけである。
漫画のどこが面白いのかを解説するのは馬鹿丸出しであるが、体調不良の原因であるから、解説しても問題はないわけである。
出だしからこのちょーしであるので、今朝もちょーしが悪いわけである。
まあ、簡単にいうと体調不良の原因は「栄養失調」であるが、細かく言うと糖質不足による体力低下であるわけである。
前々回だかに漫画を描くと異常に腹が減るということを申しあげたわけである。
話がループするが、つまりは脚本と作画をいっぺんにやるわけであるので、右脳も左脳もフル回転で脳が疲弊して糖が不足するわけである。
ご存知の通り、脳で糖が不足するとケトン体がその代わりをするわけであるが、あくまでも代わりであって、本来は脳では糖を使うのが効率的であるわけである。
そうなるとコルチゾールなんかが放出されて、脳以外で糖質を使わないようにシステムが作動して、糖新生が行われるわけである。
この糖新生には非常にめんどくさい行程を必要とするので、なーかなかエネルギーにならんわけである。
だから、朝っぱらかろくなもんも食わずに、コーヒー飲んで漫画を描くとものすごい栄養失調に陥るわけである。
それで歩くのも息切れして大変という馬鹿丸出しになるわけである。
それで、さすがに心配になって体温と血圧を測ってみるとどう考えても何ら問題のないまったくの健康体であるので、「なーんだ、気のせいか」となったわけである。
その栄養失調に気が付いて昼飯を爆食いしたらいつもの軽やかな体調に戻ったのである。
まあ、この「漫画を描くと栄養失調」というのにはもうひとつ理由があって、とにかくでたらめに描こうと思っても気が付くとプロモードに入ってしまうときがあるのである。
まあ、プロとしろーとのどこが違うかというと、金をもらうかもらわないかということである。
つまりは商品であるから、それなりのレベルやクオリティを要求されるし、それに応えようという意識が習慣化されているのである。
また、漫画の場合はとにかく競争相手が多いので、油断して、その商品としてのクオリティがなくなると椅子がなくなるのである。
そのためのスロットルの開け具合を経験から脳が覚えていて、漫画を描き始めるとある意味勝手にフルスロットルに開放してしまうのである。
フルスロットルであるから、燃料がすぐ切れてガス欠に陥るわけである。
だからといって、脳の要求通りに食えばふたたびブタカバトドになるのは自明の理であるので、倒れない範囲で、たとえば昼飯は2人前以上は食わないというコンセプトのギリギリのカロリーでバランスをとるしかないわけである。
おママンがはもちろん商品ではないので、クオリティもレベルもへったくれもなく、とにかくエコドライブで描きたいわけであるが、十分エコドライブだと言われればぐうのねもぷうのねも出ないのである。
ちなみに気功あるいはヨガてなものは、逆に脳も体も究極にリラックスさせるあれこれの方法であるから、ある意味究極の脳と身体のエコドライブの技術と言えるわけである。
そのエコドライブにより、脳の過剰に加熱した偏桃体周辺を鎮静化させて正常に戻したり、あるいは弛緩により氣道を開いて全身の血流を改善して栄養を全身37兆個の細胞にくまなく行き渡らせて再生メンテナンスをよりよく行うという効果であり、これで超人になれるとか神に近づけるとかの方法ではないのは言うまでもないことであるし、そんな方法はどこにもないのである。
あるとおっしゃる方やそれを信じてる方に異論を唱える気はまったくないので、人生の無駄を心行くまで楽しんでいただきたい。
もちろん、気功をやってれば病気にならないとか、どんな病気も治るとか、がんも治るとか、能力が何倍にもなるとかではないのはあったりまえのこんこんちきちである。
きつねかよ。
ポツンと一軒家の子7
昨日、朝から非常に体調が思わしくなくて、昼飯に行こうと思ったらさらに悪くなって、「ううむ、日頃の爆食暴食がタタってどこかが悪くなってるのかもしれない、ああ、ほんとに具合が悪い、歩くのも大変だ、あたしの寿命もこれまでか」と落胆していたが、とりあえず体温と血圧を測ってみようと測ったら、36度5分で85の125だったので、「ううむ、これはものすごく健康だ」と、とたんに体調が絶好調になって最近通い詰めてるアリオ橋本フードコートのいきなりステーキに行っていきなりハンバーグ300gを食ったのである。
そしたらさらに腹が減ったので、となりにある天丼てんやのエビ天そばを食ったのである。
飯を食ったらデザートを食わなければグルメ気功師としての名が廃るので、しめにKALDIコーヒーのchocolat couvertueてなわけのわからんチョコレート菓子を食ったのである。
このようにして神のお告げは成就されるわけである。
なんの成就かは不明であるが、人間、なにごとも食欲であるので、食わなければ始まらんわけである。
しかし、食い過ぎればろくなことはないのは周知のとおりであるので、そこはそれ腹八分目という古来よりの箴言に従って、ううむ箴言かよ、まあ、とにかく腹八分目であるが、問題はこの腹八分目が人によってちがうことである。
あたしはこれぐらいのお食事では腹6分目であるので、ぜんぜん満腹しないので、ある意味常時ダイエット食状態である。
しかし、気功師になる前に、動かないで普通に食ってたら100キロデブになってしまって、そのあと2年間で40キロ以上落としたという経験から、二度とデブカバトドになる気はないので、このように糖質制限を中心に厳しく食事制限をかましているわけである。
どこが糖質制限だ。
まあ、これに常時、神の水のこっかこーらを飲んでるので、カロリー計算をするのは恐ろしくできたもんではないが、コーラをずるずる一日中飲んでも酸食で歯がとけるてなこともなく全部自前であるし、体温血圧も絶好調で、快食快便で南枕で快眠である。
てなことを言ってて、これでいきなり明日死んだら「わははは、象師匠ったら食い過ぎで死んじゃったよ」と大爆笑をとれるのである。
はたして、明日も4コマ漫画は続くのでしょうか。
お楽しみお楽しみ。
チコちゃんと父ちゃん2
実に不思議なことであるが、あたしは北に向いて寝ると激烈な鼻づまりにおそわれるのである。
もともとがアレルギー体質で子供のころから健康診断では慢性鼻炎と書かれるのであるが、その症状の一つが鼻づまりであるのである。
まあ、これ、最近ではタレントなどもバラエティ番組で自分のアレルギー体質をネタにして笑いを取ってるので、それほど珍しくもない、ごくありふれた症状であるわけであるが、ひどいときはバツンッという感じで完全に閉まってしまうのである。
そうなると夜中に呼吸困難で悪夢にうなされて、死ぬ寸前に目が覚めるてな日々がつづくのである。
あたしはどんなに鼻がつまっても、寝てるときは口呼吸にならずに頑強に鼻呼吸をしてるらしいのである。
あまりにもひどいので、絶対に医者には行かないと決心するだいぶ前に、近くの耳鼻科に行ったこともあるのであるが、お決まりのアレルギー薬と点鼻薬をくれただけで、まったく解決にならんのである。
その手の薬は最初は効くが、継続してるとすぐ効かなくなって、点鼻薬にいたってはさらに鼻詰まりがひどくなるのである。
まあ、季節的なものであればいいが、これがあたしの場合は季節に関係なしに症状が出るので、薬を飲み続けることになるので、「こりゃ、いかん」てなことで薬はあきらめたのである。
それで、耳鼻科の先生がいうには、あまりひどい場合は下鼻甲介焼灼てな手術をして通りをよくする方法もあるということであるが、もう「焼灼」てな言葉を聞いただけで無理である。
それで、ある日、ハタと気が付いたのであるが、象気功タイ本部にいたときは鼻づまりがないのである。
それで日本とタイでは何が違うかと考えたが、食い物飲み物はなんでもあるので、日本と変わらんし、空気は住居がバンコクの劣悪な排ガス事情のまっただなかであるし、あるいはタイの暑い気功のせいかとも思ったが、日本の夏でも鼻づまりは起きるのである。
それで、ある日、さらにハタと気がついたのが、ベッドの方向である。
タイではサービスアパートといって、住んでる賃貸マンションは家具付きで、ベッドは据え付けてあるので、動かせないのである。
そのベッドは南向きに壁に据え付けであるのである。
これが日本ではどうかというと、我が家はあたしも某宗寺院護持会総代も務めたことのある家系で、現在も護持会役員を務めるあたしは敬虔なる仏教徒の端くれとして、釈迦入滅の際の「頭北面西右脇臥」に従って、頭を北に顔を西に右を下にてなことで、お若いころから頭を北に向けてベッドを置いているのである。
日本では常に北枕で寝ているわけであるが、象気功タイ本部では逆の南枕であるわけである。
仏教徒が大半を占めるタイでも、べつに北枕では寝てないわけであるが、当たり前である。
それで、ものは試しと、さっそくベッドを南向きにして、お釈迦さんと逆に、頭を南に、顔を東に向け、左を下にして寝てみたら、あーら不思議、鼻づまりはすっかり解消で、快眠快眠である。
史上最強の天才霊能気功師としての氣的感覚で、北に向いて寝ると、頭部が下に落ちる感覚で、南に向いてねると頭部が上に上がる感覚になるのであるが、どうも、地磁気の関係でヘモグロビンその他金属を含む血液がその方向に向かうからではなかろうかと勝手に思うわけである。
もちろんどーだかわからんので、後々の科学医学の研究に期待しなければならないわけであるが、あたし以外は北枕のせいでそんなひどい鼻づまりになる人もいなかろうから、誰もそんな研究なんかするわけがないのはいうまでもないことである。
じゃあ、なんでお釈迦さんはわざわざ、頭を北に向けて、顔を西に向けて、右を下にして寝てたんだ?
いみねーじゃんであるので、もちろんたまたまであるのを後のほら吹きが後付けしたのであると思うのはあたしだけではないと思う今日この頃である。
お釈迦様はこんな寝方をしてたから、鼻づまりによる無呼吸症候群による呼吸困難でお亡くなりになったんじゃなかろうかとご推察申し上げる次第である。
なむなむ。
それ以来、実に快眠の限りであるが、ほんまに人生は何がきっかけで好転するかわからんのである。
これを神のお告げと言わずしてなんというのか。
仏のお告げだろ。
しらんがな。
勘違いされては困るのでもう一度言うが、あたしはできるだけお釈迦様の教えを守る、敬虔な仏教徒である。
こいとけ。
しまいにほんとに仏罰が当たるぞ。
なむなむ。
とりあえずかよ。
ポツンと一軒家の子6
さてさて、今日も朝から漫画を描くわけである。
それで、描き始めてわかったことであるが、とにかく、ものすごく腹がへるのである。
これが尋常でなく食欲が増すので、つまりは脳を酷使するため糖が不足するてなことであるわけである。
考えてみれば、本人はお気楽に描いていても、ネタを作って絵を描くわけであるから、左脳も右脳もフル回転であるわけである。
まあ、糖が足りなくなるとケトン体が代わりをするわけであるが、それは代わりであって本来の脳機能には糖質がよろしいわけであるから、脳の糖質が不足すれば、コルチゾールが放出されて脳以外で糖が使われないよう制限して血液中の血糖値を上昇させるのとあわせて、脂肪分解作用を促進させて組織へエネルギーを供給するてなことであるので、いずれにしてもこれ、もしかするとダイエットにもよろしいかもしれないわけである。
反面、コルチゾールを大量に消費してしまうわけであるから、不足すれば糖新生に限界がきて、脳のエネルギーが不足して、脳にも体にもあれこれ問題が出てくるわけである。
だから、漫画家は病気がちで早死にの傾向があるのかもしれないのである。
もちろん、そうでもない人も多々おられるので、医学的根拠もなにもない勝手な仮説であるのはいうまでもないことである。
まあしかし、漫画を描くことは、逆に適度であれば右脳左脳の活性化になり、さらにはダイエットにもなるという、夢のようなあれこれであるわけである。
ほんとかよ。
しらんがな。
クマさんのお料理
ううむ、サイズがねえ、スマホで見ると今一つで、まあ、やっぱり表現者としては見るもののことを考えてしまうわけである。
紙媒体と違って、ネットであると、同じものが端末やブラウザによって様々で、PCやタブレットで問題がなくても縦長のスマホでみるとあらいやんのことが満載である。
それで、どんな具合かを見るために、とりあえずコマ割のサイズを変えて、朝っぱらからちゃっちゃとネタを作ってアップしてみるわけである。
ちゃっちゃと作ったのでちゃっちゃなできあがりであるが、まあ、本気で作っても大差ないのがげーじゅつの不思議なところである。
これを才能あるいは能力あるいは能無しというわけであるが、どうやってもその者の本質がでてしまうわけである。
ネタは出たとこ勝負でいくらでも出てくるので、あとは見栄えの加点ということになるわけである。
この見栄えについてのめりこむとめんどくさいことになって、堂々巡りのあれこれになるので、まあ、だいたいのところでいいとすることにしてるのであるが、ときどきやっぱりどうかしらん?と思ってしまうのがアーティストのサガである。
だれがアーティストだ。
はいはい。
どれどれ。
クマさんとわたし2
まあ、ここんところの話題は、男の某小田さんが女の某浜田さんに泣かされて「いじめられたよー」と訴えたりしてるわけであるが、「男のくせにだらしない」なんていうと逆差別になるし、ここぞという時、あるいは導火線に火が付いた時の女の恐ろしさをしらないとんちきのご意見であるのはいうまでもないことである。
男は筋肉という鎧を能力と勘違いしてるが、これが利用できない状況ではまるっきり根性なしになるときが多々あるのである。
たとえばおびょーきをしたりして体力筋力がガタっと落ちると、今までおおいばりであたりをけちらしていた御仁が、へろへろで声も小さくなり、根性もへったくれもなくなるのを、あたしは何度も見ているのである。
多少の差はあれ女は最初から筋肉という鎧がないため、常時から中身丸出しのそのままで戦いに望んでいるので、鎧をひっぺがした対等な条件であれば、男は太刀打ちできないことになるのである。
欧米諸国の例を見ると、女が政権のリーダーになってから倒れそうな国が立ち直ったりしているので、「女ではだめだ」という観念自体がもうだめだである。
原始の時代から体力筋力が支配の根本であったのが、現代の先進国と言われる国では、男女差別に対する意識あるいは何かあれば訴訟になるてなことから、それが使用できない状況下では男はもうこれ太刀打ちできない時代がすぐそこまで来ているのである。
だから、その危機感もあって、政治や経済でも頑強に男がスクラムを組んで必死で女が入れないようにしているのかもしれないわけである。
あたしはもちろん最初からギブアップである。
漫画のネタとはぜんぜん関係ないネタである。
今見てる松ちゃんの某わいどなしょーのせいである。
ポツンと一軒家の子5
ううむ、いかんな、今日も自分のネタであまりのくだらなさに大爆笑してしまった。
まあ、漫画といえば某あまぞんの電子書籍の読み放題で昔懐かしのものをいろいろ読めるので、最近のあれこれの暇つぶしは見過ぎて見るものがなくなった某Buzzビデオからこれである。
あたしの書棚から最初に辞書がなくなって、さらに本という本があたしの周囲からなくなって久しいが、先日、知人と話してたら、やっぱり紙の本でないと読んだ気がしないてなことである。
あたし的にはすべての本を電子書籍にしていただきたいと願うのであるが、そうでもない皆さんも多々おられるわけである。
この「おママンが」は電子書籍のたぐいに入るのかどーかはわからんが、タブレットでもスマホでも無料で読み放題であるわけである。
それにしても、よくもまあ、こんなくだらんネタが次から次へと出てくるもんであるが、あたしの守護神か守護霊か背後霊か憑依霊か地縛霊か犬のすがりか猫のすがりはいったいあたしに何をさせようというんでしょうか。
まあ、以前にあたしの気功の師匠筋の大せんせーに「お前の霊格は泥棒よりも人殺しよりも低い、地球上でもっとも霊格が低い人間であるから、とにかく徳を積め」といわれたのであるが、無償で世間に楽しみを与えるのは徳を積むということなるかもしれないわけである。
そう考えると、なるほどと思うが、野放図に好き勝手に描くことが徳を積むことになるのかどうかは定かでないのはいうまでもないことである。
ポツンと一軒家の子4
ううむ、しまった、自分が描いた漫画のオチで爆笑してしまった。
まあ、自分で描いて面白がっても、これが他の人に通じるかというと、そーでもなくて、ぜんぜんわけがわからないという人も多々おられるわけである。
これの何が面白いのかてなことを説明するのは、これもう作る方にしてみればアウトである。
まあ、100人が100人面白いものを描くのは不可能であるので、そのうち何人かが面白いと思ってもらえればよしとすることにしているが、それでもなんとか全員にわかってもらいたいと思うのもお笑いネット芸人のあれこれである。
ひとりよがりは禁忌というのが大衆芸術の基本であるが、昨今はそうでもなくて、ネットではものすごくひとりよがりでマニアックなものがバカ受けしたりするのである。
ネットの登場で漫画の方向性も、どんどん変化していくのもいたしかたないわけであるが、あたしはなんとかわかりやすいものを作りたいとあれこれしているわけである。
てなことで、仕事で遅くなったがアップするのである。
ポツンと一軒家の子3
前回の入院騒ぎの話の主は、「お父さんとボク」の回の後書きネタで、あたしが5歳のおり、父親の命が危ないときに「わはは、そいつはすげーや」と笑ったのを怒った伯母である。
平たく言えば父親の末の妹で、長期間いっしょに暮したので、年は離れているが、ある意味、姉弟みたいな関係である。
それで、その伯母が朝起きたら「めまいがする、立てない、吐き気がする」と言ってげーげー吐いて、当然、伯母の家族は大あわてで救急車を呼んで病院に行って、どうも症状からは素人判断でも脳梗塞あるいは脳出血てなことが脳裏に浮かんで、電話をもらったあたしもびっくりして取るものもとりあえず、下着を着替える時間もなく、きたなくてくっさいままで駆け付けたわけである。
それで、伯母はなにしろめまいで歩けないし、げーげー吐くしで大騒ぎであるので、その日はめまいと吐き気を止めるお薬と点滴をされてお休みになったのである。
次の日落ち着いたので、目にライトを当てられたり、手を挙げたり下げたり回したりとか、足を片方づつバタバタさせられたりとあれこれ検査をされて、血液検査や脳も調べて結果待ちてなことである。
それでまた次の日に、「もうだめだ」とこの世の終わりみたいに悲嘆にくれてる伯母に、医師とナースのおねえさんが反笑いで「たいしたことはありませんから、帰って結構です」てな話をされて、無事ご帰宅なされたのである。
検査の結果は、脳にも血液にも異常がなくて、健康体であるてなことである。
それで、めまいとげーげーの原因は良性発作性頭位めまい症てな診断で、平衡感覚に関与する耳石のかけらが三半規管に侵入して平衡感覚に異常をきたして、さらには強烈な吐き気を催したてなことである。
まあ、どちらかといえば男性よりも女性に多い症例で、いってみればよくあるおびょーきであるわけであるが、だいたい長くて5日ほどで改善してもとの生活に戻れるてな話しである。
だから、伯母が人生の終わりを悟ったような苦しみ悲しみの顔で悲嘆にくれてるのを見て、医師とナースのおねえさんは反笑いであったわけである。
まあ、このめまいと吐き気が脳梗塞や脳出血あるいはメニエール病てなこともあるので、この手の症状が出たときは、軽々に考えずに、とにかく病院に行って医師の指示に従うことが重要であるのは言うまでもないことである。
いつも口をすっぱくして言うことであるが、具合が悪くなったら氣だの霊能だの祈祷だの手かざしだの呪文だのグルだの教祖だのほら吹きだのインチキ療法だのに頼ることなく、良い医師の診断と治療を受けることが肝要である。
古今未曽有稀にみる史上最強の天才霊能気功師と言い張るあたしが言うんだから間違いないのである。
三半規管に入った耳石によるめまいや吐き気は、あたしが怒涛の氣を当てても治らないし、もちろん悪霊や先祖のタタリではないのである。
病気になったら医者が第一である。
もちろん、ネタがネタであるので、オチはないのである。
ちゃんちゃん。
ちゃんちゃんもいらないのである。
うるせーよ。
ポツンと一軒家の子2
11月17日の「おじいさまとわたし」にコメントを寄せていただいたああああ様、コメントの掲載が遅れて大変申し訳ありません。
実はその日に親戚のものが急病で入院したとの連絡があり、朝っぱらから日曜の病院に駆けつけて、てんやわんやでさすがに数日はネタを作って上げるだけで追われ、コメントの確認ができずに、今日になって気が付いて承認しました。
平身低頭伏して深くお詫び申し上げます。
まあ、そんなこんなで、日曜の病院に行ってみると、あたしも取り急ぎであるのでシャワーも浴びず下着も替えずの普段着のままで、きったなくてくっさいかっこうであるが、数人いた患者さんとご家族の方はどなたもおなじようにきったなくてくっさいのである。
そらそうである、日曜で休診日の病院に来てるわけであるから、急病でにっちもさっちもいかない人とそのご家族が、着の身着のまま普段着で来てるわけであるし、あたし同様に下着も替えないままであろうから、くっさいわけである。
つまり、日曜祭日の病院はきたなくてくっさい患者とその家族ばかりであろうから、医師や看護士の方はそれに慣れているのか、かわいいナースのおねえさんもきったなくてくっさいおっさんのあたしに顔をしかめることもなく、にこやかに対応してくれたのである。
まあ、ご存知の方はご存知の通り、あたしは自分ではまったく病院には行かないし、健康保険の無駄払い的な生活であるが、日曜の夜の病院も観察できて、いざというときはまかせとけというノウハウができたわけである。
とりあえず、このような緊急の時のために毎朝下着を替えようと心から決心したのである。
まあ、あたしは意識不明になるまで病院には行かないと決心してるので、どーでもいいかもしれないのであるが、意識不明でも、黄色いパンツをナースのおねえさんに見られるのは恥ずかしいのである。
毎日替えてないのかよ。
青春物語
何がその人にとって正解なのかは千差万別で、その人の思いは他人には何がなんだかわからんわけである。
その人がそう思っているならそれがその人の正解であろうから、はたからあれこれいうのは大きなお世話である。
そうはいっても明らかにとんちんかんなことをなさっていると、どうしても大きなお世話をしたくなってしまうのも人情である。
先日、回転寿司で後ろの席に座った老夫婦が初めてと見えて、店員にタブレットでの注文のやり方と、皿の取り方なんかの説明を受けていたのであるが、他人の注文した皿をてきとーに取って食ってるのである。
どうも自分の注文したのと同じものが回ってくるとタブレットの「ご注文の品がまいります」てな音声に関係なく取って食っちまうわけである。
まあ、それを食われた人は注文数と皿の数がそうとう違ってしまうので、勘定の皿の数の確認のときにもめるだろうことは予想できるわけである。
しかし、あたしが「他の人の注文した皿を取ってはだめですよ」と注意をすれば、今までの経験で、「これはおれが今注文したばかりのマグロだ、お前になにがわかる」てなことで、老化現象で怒りを抑えられないご老人とおおもめになるだろうことも予想できるわけである。
しかし、それでもここで一発決めねば男がすたると決心して、ご注意申し上げようと立ち上がった時に、店員さんが再び、注文の皿の取り方を説明に来たのである。
まあ、2回も説明を聞いたんだから、大丈夫だろうと思って観察してたら、やっぱり他の人の注文した皿を取って食ってるのである。
困った話である。
そのまんまかい。
クマさんとわたし
まあ、なんである、沢尻さんをパッチギ等でみたときは、いやはやすごい才能が出てきたもんだと思ったが、その後の例の「別に」発言からあれこれ叩かれて、ようやく来年の大河にご出演となったのに犯罪者である。
まあ、公的支払いができない徳井さんにしても、才能と欠落あるいはぷっつんは同居しているもんであるなあと今さらながら納得する今日この頃である。
あたしの場合は、才能はないが欠落は多々あるのである。
まず、人の顔がおぼえられないという欠落である。
これがひどいもので、そうとう親しい人でも街中で会うと誰だか思い出せないことがしばしばである。
そんなときは知ってるふりをして、「あ、どーも」とか「その節はお世話になりました」とか言ってごまかすわけである。
つぎに、車で行くときの道がさっぱり覚えられないのであるが、なんども通ってる道でも迷ったりするのである。
しかし、これはカーナビという神様がでてきて解決したのである。
つぎに、財布やスマホやカギてな小物をしょっちゅう置き忘れてなくすのである。
財布は免許証とカードその他のなくなると非常に困るものが満載であるので、なくしたときは大騒ぎである。
スマホはいちおうロックしてるので大事にはいたらないが、10万円がとこがぱーになるので実に痛いわけである。
カギはもちろん家にも入れないし、車も乗れなくなるのである。
これの対策としては、財布やスマホやカギにストラップという名のひもを付けたのである。
だから、ショルダーバッグやサコッシュはひもだらけである。
つぎに、電気をつけたら消すことができないのであるが、これは人感センサー付きの電球や器具がいろいろでてきて、かなりのところまで解決したのである。
こうしてみると、忘れるという欠落であるいうことがわかるわけであるが、まあ、記憶力になんらかの問題があるわけである。
そうはいっても、今からこれを治すてなことは不可能であろうから、今後もあれこれ忘れて人生を送るわけである。
そのうちとんでもないものを忘れて人生がいきなり終わるてなことがないことを祈るばかりである。
この漫画もなんか忘れてるかな。
おじいさまとわたし
世の中には言っていいことと悪いことがあるわけである。
まあ、それも人と時と場合てなことであるわけであるが、たいしたことでないことも、大炎上てなことになる場合もあるのである。
マスメディアとちがって、ネットSNSはそれまで発言権のなかったあたしらアホも知識人と同等に意見をのべることができるようになったわけである。
そうなると常識からかけ離れたご意見も、常識的なご意見と対等に扱われて、なんでもありの誹謗中傷はあたりまえで、さらにはウソ八百のいわゆるフェイクてなものも多々あって、これがものすごくややこしい状況になっているのである。
べつにだからといって、あたしがあほの代表でむちゃくちゃな意見をあれこれ発するわけではないが、漫画ぐらいは好き勝手に描かせてももらいたいわけである。
そうはいっても、おママンがはレンタルブログを使用しているわけであるから、当然、規制はあるわけで、やっぱりそれなりに常識の範囲内のネタということに終始してしまうことになることもあるわけである。
まあ、それではあたし的にはおもしろくもなんともないし、アートはやっぱり規制の枠をはずすことによりアートとなるわけであるので、ギリギリスレスレのネタをこれでもかとやりたいのである。
てな言いわけである。
なんの言いわけだよ。
おにいさんとわたし
まあ、おにいさんとよばれなくなって久しいのであるが、おじさんとよばれるのはいやだし、おっさんもいやだし、おやじさんもいやである。
そのうちおじいさんだのじじいだのと呼ばれるようになるわけであるが、呼ばれるうちはまだましで、呼ばれなくなると棺桶の中である。
ううむ、なんでその方向に話が行くのかわからんが、人生は死ぬまでの暇つぶしという名言が我が家の家訓であるので、この先も日々、暇をあれこれつぶす方法を模索するわけである。
暇つぶしの中でも漫画を描くのは実に暇がつぶれるのである。
それで、漫画を描くにはとにもかくにもネタつまりアイデアを考えなくてなならないのである。
これが商業誌の場合であれば、編集者と、読者というスポンサーの人気を考えなければならないので、エネルギーも尋常でない量が必要であるので、はせがわせんせーを始めとしてたいていの漫画家は一度ならず大病をして、さらに、てづかせんせーを始めとしてたいていの漫画家は早死にである。
まあ、たいていであって、やなせせんせーのようにご長寿の部類に入る人もおられるので、やっぱり、なるようになるものはなるようになるわけである。
まあ、それでネタができたら、ケント紙だの模造紙だのてな紙に書く場合は、下書きをすればその上をペンだのロットリングだのサインペンだのでそのとおりになぞればいいだけであるので早いと思うが、そのあと消しゴムをかけて、ベタだの色付けだの修正だのをしなければならないので結局けっこうな時間と労力がかかるのである。
それではタブレットで描けば早いかというとそーでもなくて、指マンに慣れないこともあるが、消したり描いたりでやっぱりけっこうな時間をとられるのである。
まあ、おママンがはもちろん編集者もスポンサーも関係ないまったくの暇つぶしの道楽趣味であるので、ネタを考えるわけでもなく、タブレットに指でてきとーに描き始めててきとーにオチをつけて出来上がりである。
オチのない漫画が当初のコンセプトであったが、どうもオチをつけないと気が休まらないので、結局、オチのある漫画を描いているわけである。
ううむ、情けない。
タクシーとボク
あたしもときどきタクシーのお世話になるが、どうもタクシーの運転手さんとは、しっくり行かないのである。
しっくり行かないというよりはむしろ敵同士のようなものという方が正解である。
なんのトラウマなのかタクシーに乗ると、とにかく不快になるのである。
あたしが不快であるから、その波動を受けた運転手さんの方も、当然、不快感丸出しの対応で、会話は全くないのである。
だからタクシーの運転手さんとにこやかにお話をしてる人と同乗すると、ある意味尊敬してしまうのである。
それが若さのせいであると思っていたのであるが、いい年をしたおっさんになった現在もうまく行かないので、すっかりあきらめて、タクシーでは行き先以外は無言ということにしたのである。
しかし、近い場合はいいが、遠距離の場合はこれがけっこう気がつまってしんどいのである。
人間は同じ空間で長時間にわたって無言でいることが苦痛になるようにできているのかもしれないのである。
まあ、あたしがタクシー以外ではおしゃべりであるせいであると思うが、そんなときは寝たふりをする以外ないので、ひたすら目をつむっていてときどきミラーをみると、運転手さんもときどきあたしを見てるのである。
だれにとっても、長時間の無言はやっぱり気づまりであるわけである。
海岸物語2
やけくそかよという指摘もあるかもしれないネタであるが、もっとやけくそになりたいわけである。
芸術はやけくそであるというのがあたしの持論であるので、どんなに捨てようと思っても、どこか捨てきれないところがあるのがさもしくて情けないのである。
だれが芸術だ。
ぜんぜん身のないおためごかしのつかみは置いといて、まあ、あたしの人生でクマに食われることはないと思うが、それでも絶対にないとは言い切れないのがこの世である。
また、あたしの行きつけの江の島の海岸にクマが出ることはないと思うが、それでもわからんのがこの世である。
そのあたりにクマを飼ってるクマおじさんてな人がいて、そのおじさんがうっかり、小屋のカギをかけ忘れてクマが海岸に散歩に出て、そこにあたしがのほほんと散歩に出かければみごとにクマと遭遇して食われることになるかもしれないわけである。
だれがクマおじさんだ。
さらに身のないおためごかしの尺稼ぎのネタはあっちに放っといて、太っていてクマに似ている友人を「クマのプーさん」と呼んだら本気で怒られたことがあるが、たいていの男はクマに似ていることに不快感があるのかもしれないのである。
まあ、某ちゅーごくのしゅーさんが、プーさんを検閲でNGにしてるという話を聞いたことがあるが、そんなに似てると言われるのがいやなのかと思うぐらい、万国共通に、クマに似た男にとってはクマに似てると言われるのがいやなのかもしれないのである。
クマが絶滅していなくなったら、クマに似た男はなんと呼ばれるのかと考えてみると、ほかに例えるものがないということに気が付くのである。
クマに似た男はやっぱりクマがいてこそのクマに似た男である。
なんやそれ。
ドワンと歩けば
ドワンがすっかりキャラクターとして定着してしまったが、あたしも犬を飼ったことがあるのである。
まあ、飼い始めは毎日散歩に行ったのであるが、そのうちめんどくさくなって、庭にワイヤーを張ってそこに綱を結んで走り放題にしてほったらかしである。
世間の愛犬家からすると非常に不謹慎な話であるが、それでも、加齢による衰えからかフィラリアを発症してお亡くなりになるまで16年ぐらい元気に生きたのである。
当たり前であるが、犬も猫もどうしても先に死ぬので、AIが進化してロボット犬やロボット猫のいいやつが出たらそれを買いたい、いや飼いたいと思うのである。
孫さんにはそこんところも期待するわけであるが、ウィーワークその他の件でヘタ打ったので、うっかりしてると日本経済が奈落の底に落ちるてな話もチラホラ出てきて、どーなるかはわかったもんじゃないのであるが、それでもほかのメーカーさんも含めて期待したいところである。
まあ、それで、話は変わって、あたしの最近のお笑いのお気に入りはこーぞくのちをおひきになってる作家の某たけださんである。
まあ、出自が出自で、言動が言動であるので、あまりいじると各方面から怒られるが、まあ、とにかくこの人が出てくるとあたしは爆笑抱腹絶倒で、実に幸せな気分になるのである。
あの、お笑いとして恵まれた容姿と声と話し方と落とし方に嫉妬してしまうぐらいご尊敬申し上げているのである。
もちろん、本人は笑わせようとしてるわけではないわけであるから、これもう、たぐいまれなお笑いとしての才能のなせるわざであるわけである。
笑いたいときはこの人のゆーちゅーぶのちゃんねるを見て心から楽しむのがこのところの日々である。
ううむ、文章が変だが、あたまが変なのでしかたがない。
おいおい、びょーいんに行けよ。
行きません。
もちろんあたしのモットーは社会がどんな状況でもテキトーに合わせて運まかせで生きるということであるし、あたしの言動で社会をどーのこーのしようなんてことはおこがましい限りであるので、この人の思想信条はまったくどーでもよくて、とにかくお笑いとしてはまりこんでいるわけである。
何事も才能というのはいかんともしがたくて、あたしら凡才はこの手の天才に太刀打ちできるすべはないのである。
それもこれも自分で選んだことではなくて、大いなるあの方に類するものに勝手に決められたわけであるので、うらやんでも意味はないわけである。
たけださんが番組でいみじくも「てんのーは義務である」と言われたように、そのこととは多少意味は違ってもたけださんの才能も勝手に決められた義務であるし、あたしらの凡才も勝手に決められた義務であるわけである。
しかしながら、5歳の少女が継父に1か月にわたってぎゃくたいされた果てにいじめころされるのも、池袋を歩いてるだけでぼけ老人の踏み間違えの暴走車に突っ込まれるのも義務であるとしても、さすがにあの継父や自分を特別と勘違いしてるじじいいやしつれいばかいやしつれいくずをなんとか法律を改正してしけーにできないものかてな極めて浅はかでおこがましい気持ちになるのはまだまだあたしの修行修祓が行きついていないということであるとハタと気が付いたのである。
それで、心機一転、明日からは能無しの義務を敢然と果たすべく、心の底からテキトーに生きることを決心した次第である。
もちろんそんな決心は明日の朝になれば雲散霧消であるので、うらみつらみねたみそねみの地獄に落ちるのも義務である。
まあ、そんなことで。
これ削除かな。
お父さんとボク
おママンがブログ開設当初のコンセプト通りに、心の底からヘタな漫画を描こうとは思っているのである。
しかし、お気づきの方はお気づきの通り、タブレットで無料のくそアプリを使っても、描き続けると絵も内容もレベルが勝手にどんどん上がって、当初のコンセプトがなしくずしなわけである。
このことからも人間の脳というものはそーなるようにできてるということがよ~くわかるのであるが、もちろんどーでもいい話であるのはいうまでもないことである。
くだらん尺稼ぎのネタはともかく、あたしが1歳半ぐらいの頃に上野動物園に行って、父と母の間で両手をつないで、正門の前で吊り輪のようにくるりとうしろに回転したときに象が「パオー」と鳴いたのを今でも鮮明に記憶してるのである。
それが母も含めて父との最古の記憶で、1歳半の時の記憶があるはずもないと思うのであるが、後年、母に聞いてみたら実際に行ったそうである。
上野動物園の正門の上のアーチ飾りも覚えていて、まあ、象の鳴き声がそうとう印象深かったので、その記憶を事あるたびに思い出して、記憶の塗り直しで今に至るということかもしれないのである。
父はこのネタのお父さんとは違って、釣りが唯一の趣味という実直な勤め人で、面白みも何にもない人間であったが、そのおかげで生活に苦労するということはなかったのである。
ただ、あたしが5歳ぐらいのときに、父が盲腸を胃けいれんと誤診されて死の淵をさまよったのであるが、親族が集まって死ぬかもしれないと話してるのを聞いたあたしが「わはは、そりゃあすげーや」と笑ったら、そのとき一緒に住んでいた伯母に「お父さんが死んだら明日からどうするのっ」とひどく叱られたことも鮮明に覚えているのである。
あたしのバカは今に始まったことではないのである。
おお、うまく決まった。
ジョギングマン2
まあ、なんである、前回の「チコちゃんと父ちゃん」で時事ネタ社会風刺漫画を描いてしまい深く反省して、今後は何が何でもでたらめ漫画を描くぞと固く決心したのであるが、どうしてもなにかしらのオチをつけたくなってしまうのがお笑いネット芸人としてのさがであるなあと今さらながらに認識するわけである。
それはともかく、早朝にジョギングをしているといろいろな人と会うし、いろんな現場に遭遇するわけである。
だいたいが犬の散歩の人と出くわすわけであるが、このババアやジジイいや失礼、奥様やだんな様が、これがなんでかというほどマナーが悪いのである。
放し飼い禁止と書いてある近所の公園でも放し飼いは当たり前で、ジョギングの道すがらの歩道で巨大な犬だけが歩いてくるときもあるのである。
それでその巨大な犬の後ろから歩いてきた飼い主の奥様をご注意申し上げたのであるが、次の日にだんな様と思しき男性と歩いてきたその奥様が「あの人が怒るのよ」と言いつけているのが聞こえたのである。
そのご家族では、あたしはすっかり極悪人である。
公園の広場でも放し飼いの連中に多少大きめの声でご注意申し上げたので、おそらく公園の犬仲間ではあたしはとんでもない要注意人物あるいは変人扱いになってるわけである。
これは無理ということで、早朝のジョギングはやめたのである。
オチはありません。
チコちゃんと父ちゃん
火事といえば、小学校の同級生で近所に住んでる田中くんと家路についてるときに進行方向で煙が上がって消防車が向かってるので、「火事だ火事だ」と走って見に行ったら、田中くんの家だったのである。
今でも思い出すと爆笑するのであるが、火事で爆笑してると叱られるのである。
今回はセオリー通りの時事をもりこんだ社会風刺てな、でたらめ漫画を心がけるあたしとしては非常に忸怩たる思いがぬぐえないできあがりである。
明日からは心引き締めて、でたらめなものを描く所存である。
まあ、これ、当初は「チコちゃんが叱られる」てなタイトルにしようと思ってたのであるが、それもあざといので、「チコちゃんが殴られる」にしたのであるが、そのまんまネタバレであるので、「チコちゃんと父ちゃん」におちついたのである。
なにしろタブレットに指マンであるので、これがなかなか不自由で、文字を描くこともままならないぐらいであるから、思うような絵になるわけもなくて、さらには、筆ツールで色を塗るのもめんどくさくなって、塗りつぶしツールでべた塗りである。
それでもなんとなく上達感があって、子供の時分に帰った気持ちが味わえるのは予想外の余禄である。
グッドワイフとクマちゃん
昨日、知人との会話の中でジュリアナ・マルグリーズの「グッド・ワイフを見てる」「あたしもあたしも」という話が出たので、このネタになったのである。
グッド・ワイフとせずにグッドワイフとしたところに、こんなネタに使って申し訳ないというリドリー・スコットさんに対するあたしの謙虚な心遣いをくみ取っていただきたい。
しらんがな。
まあ、ネットだからといって、なんでも書いていいわけではないのであるが、あれこれのしばりがない分どうしても野放図になるのはいたしかたないのである。
もちろん、だれがやくちゅーだとか、だれが2年6か月のじっけーだとか、だれがばいしょーきん踏み倒しだとか書いてるわけではないし、クマちゃんが「友人だ」と言い張ってるだけである。
クマちゃんの目つき顔つきに多少のびょー的ないじょー性があっても、顔についてあれこれ人いやクマを誹謗するのは人道的にいやクマ道的にいかがなものかと思うのは人権派いやクマ権派気功師としての当然の主張である。
あたしはこいつらいやこの皆さんのどなたに対しも恨みも嫌悪もないので、非難してるわけではないし、今後の治療とご活躍を祈るばかりである。
まあ、いいわけはこんなとこで。
しかし、千葉の森田さんはいいわけ会見で手がふるえてたよねー、本人もわかってるとは思うがアウトだよねー。
しらんがな。
ポツンと一軒家の子
フジのポツンと一軒家をけっこう見てるのであるが、最近は企画が先行というのか、裏側が見えて残念な感じが多々である。
まあ、それでもときどき「へー」てな感じの住人がいるので、それはそれで見てしまうのである。
この番組が当たってイッテQもそこそこで、クドカンの台本がしっちゃかめっちゃかの上に演者の不祥事続出の大河は史上最低を更新中であるが、まあ、何があるかわからんのがこの世であるので、それもこれも録画して「へー」と思ってみてしまうのである。
滑り出し当初、緊張でフリもまともにできないハセンが回しで、奥さんや高齢者しか見てないのはわかってるだろうに、ひろゆきはまだしもわけのわからんにーちゃんやねーちゃんをコメンテーターにして志らくを潰すための企画かあるいはふざけてるだけかとしか思えなかったグットとラックも、弁護士のおっさんや元何とか官僚のおばさんてなまともなコメンテーターも出てきて、0%は回避できそうであるので、談志の落語のファンであるあたしとしてはその弟子の行く末に多少の安堵感を覚える昨今である。
このようにテレビの録画もネットのあれやこれやも見なければならないので、忙しいったらないのであるが、つくづく幸せな時代に生まれたもんである。
そんなもん見てないで仕事しろ。
トリとりのぼく
もちろんあたしは鳥をとったことはないのであるが、子供の時に夜店で買ってきたヒヨコを飼ったことはあるのである。
しばらく庭で放し飼いで飼ってたら逃げもせずに元気に育って親鳥になったのである。
でも育つと雄鶏であるのがわかって、卵を産まないのは子供心にもわかって、大変がっかりしたことを覚えているのである。
まあ、愛玩目的であるので、卵を産まないなら食うてなことは親も考えのほかで、そうこうしてるうちに犬にとられたのかいなくなってしまって、あたしはさらにがっかりしたのである。
ぞっとする話である。
どこが。
クマちゃん
犬も飼ったことがあるし、猫も飼ったことがあるが、クマは飼ったことがないのである。
クマを飼うにはそうとうの根性がいると思うが、ペットショップにクマは売ってないので無意味な心配である。
かわいいものの代表の犬に猫にクマが出てきて、これだけ不快にさせる漫画はおママンがだけである。
ある意味才能といえるのかもしれないが、なんの役にも立たない才能である。
商業誌でもなく、無料サイトで、もちろん一円にもならんのであるから、どこにも遠慮することもないのであるが、それでもどこかに絵でカネをもらってたときのシメが抜けないのである。
まあ、もちろんお子様もごらんになっているわけであるから、そこはそれそれなりに大人の分別内のネタということになるのである。
そうとも思えんが。
自分で言うな。
猫漫画
だいぶ前に野良猫だったオスのトラ猫を飼っていたことがあるのであるが、名前はそのまんまトラちゃんで、このトラちゃんが太り過ぎて屋根から塀に飛び移ろうとして、そのまま落ちて顔の半分ぐらいが塀でそぎ落とされて、獣医に連れて行ったらとんでもないお金をとられたのである。
トラちゃんは牙が片方欠けていて、野良猫だったので年齢がわからんのであるが、数年して具合が悪くなって獣医に行って、治療の点滴の針を刺したまま家出して、死ぬ間際に帰ってきて一晩中小さな声でニャアニャア鳴いて、朝方お亡くなりになったのである。
そのときのあまりの悲しさに凝りて二度と猫は飼うまいと思ったのであるが、そのあと真っ黒の野良猫のクーちゃんがどこからかいきなりやってきて、あたしにくっついて勝手にスタスタと台所に上がり込んでうちの猫になったのである。
クーちゃんはしばらくうちの猫であったのであるが、ある日、自分の家を思い出したらしく、帰ろうとしたのか道路を渡ろうとして車にはねられてお亡くなりになったのである。
近所の人に「おたくの猫が道路で死んでたけど、近くのガソリンスタンドの人が役所に電話してかたづけたよ」と教えられて、そのあまりの悲しさに二度と猫は飼うまいと決心して、それ以来さすがに猫は飼っていないのである。
ほっこりする話である。
ちがうだろ。
海岸物語
まあ、気持ちとしてはさわやかなものを描きたいわけである。
しかし、生まれついてのアーティストとしては人の心をえぐるようなものを作るのか使命であるわけである。
どのつらさげてアーテイストだ。
もちろん表現の自由なんてこととは違って、気持ちよくないものという方向性に話を展開するのがあたしの因縁霊からのおすがりであるわけである。
師匠、病気が出てますよ。
草の向こう
絵をずいぶん描かなかったことに加えて、デジタル画材の変化というのか進化というのか、タブレットの無料のへっぽこお絵かきアプリに指で描いても、昔のフォトショップにワコムのペンタブで描くよりも数段よろしい絵になることに驚くのである。
まあ、今さら絵でめしを食う気はさらさらないので、そんなことはどーでもいいのであるが、いわば指画に慣れてしまって、せっかく新しく某あまぞんで買ったワコムのペンタブもタブレット用のスタイラスペンもめんどくさくて使う気にならんのである。
だから、このまま指画で描いた指漫画で続行である。
指漫画であるから指マンであるわけであるが、差しさわりがあるので、タイトルはおママンがで続行である。
おママンがも差しさわりがあるだろ。
ジョギングマン
あたしも一時期ジョギングに凝って毎日走ってたのである。
健康にいいのか悪いのかはさておいて、いい年したおっさんが血相変えて走ってると、通りがかりの女性が逃げることがあるのである。
同じ道を走るのに飽きてあちこち走って道に迷って、通りがかりの女性に道を聞いたりすると、黙って逃げていくのである。
昼間に走るのは恥ずかしいので、真夜中に走ってるせいもあるかもしれないのである。
あるいは、あたしの風体が怪しすぎるのかもしれないのである。
ほっといてくれ。
それで、朝っぱらに走ることにしたのであるが、こんどは散歩してる犬に吠え付かれるので、やっぱり風体が怪しいのかもしれないのである。
やかましわ。
今日のごはん
まあ、なんだ、これ、「今夜のごはん」が正しいタイトルであるかもしれんが、書いちゃったのでしょーがないのである。
カレーといえばうんこというのはお子様の大好きなネタであると思うが、おそらくほぼほぼの大人は大嫌いなネタである。
その上「へーしてねろっ」では、お下品ネタのそろいぶみで、これで好感度は絶壁からダイビングである。
タブレットの無料お絵かきアプリで、できるだけヘタクソな絵とできるだけ無意味なネタでお茶をにごしたいというのがコンセプトであるが、きのうの夜、誘惑に負けて某あまぞんで新しいワコムのペンタブレットを注文してしまったので、ついついムキになって本気を出してしまうかもしれないのがイヤである。
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