ぺちぺちくん2・最近の文春も新潮も読むものがねー


ううむ、その場しのぎで描いたぺちぺちくんにすっかりはまってしまった感が否めないが、このことからも、なにがどこでどうなるかはまったくわかったもんじゃないのである。

まさに神の采配神の思し召しである。

文章もその場しのぎかよ。

まあ、このおママンがは稿料も発生するわけではないし、本を出す予定もまったくないので、練りに練ったアイデアなんてことではまったくないのはいうまでもないことである。

おもいっきり手抜きのいきあたりばったりで書き始めて、勝手に話ができて、ぺちぺちくんが勝手に活躍してるわけである。

そうなると、なんか飼ってるペットが遊んでるのを見てるようで、なんとなく愛着も出てきてしまうのである。

だからなんだといわれれば、とくにコメントはないのであるが、えーと、なんだっけ、なんか言いたいことがあったのであるが、まったく思い出せなくなってしまったのである。

ああ、そうだ、最近の文春も新潮も読むものがねーのである。

中の記事はまったく読みたいものもなくて、やふーにゅーすで十分である。

dマガジンてなのに登録してるので、大手の週刊誌は多少の抜けはあってもだいたい読めるのである。

しかし、最近読むのは、サンデー毎日の蛭子センセーの人間画報と文春の桜玉吉さんの日々我人間ぐらいである。

おいおい漫画だけかよ、ということではなくて、いくらレベルの低いもの好きのあたしでも蛭子センセーの漫画を読みたいわけではなく、もちろん文章を読むわけである。

漫画と比較するのはなんであるが、蛭子センセーの日常と心理がなかなかうまく書けていて、本人の人間性がうんぬんはともかくとして、やはり才能がそれなりにあれこれであるわけである。

それで、蛭子センセーが番組の収録で小指を骨折してしばらく連載がお休みになったときは読むものが玉吉さんのものだけになってしまったのである。

桜玉吉さんの連載は、あたしはときどき伊豆に遊びに行くので、なんとなく話に親近感があって読んでしまうのである。

でも、両方読んでも、文春に費やす時間は週に5分がせいぜいであるわけである。

新潮にいたっては、いちおう目次はチェックするのであるが、東野幸治さんの吉本の内輪ネタの連載が終ってからはまったく読むものがないのである。

それであれこれの週刊誌をあれこれ眺めていていつも思うのであるが、週刊誌のへっぽこなねーちゃんのぬーどはあたし的にはまったくいらんのである。

ふらいでーやふらっしゅやさいぞーてなもんになると、うっかりしてると半分ぐらいのページ数がへっぽこなねーちゃんのぬーどで占められているのであるが、ネットでとんでもないものでも見れるこの時代に、あれを目的に週刊誌を買う人がいるとも思えんが、もしかすると昔懐かしの袋とじ的なものをうはうはで楽しみにしてるおにーさんやおっさんがいるのかねしかし。

ついでに言うと、話はちがうが、映画やドラマのべっどしーんもいらんのである。

これも、とんでもないものも自由に見ることができる時代に、時間つぶしみたいなおためごかしのべっどしーんを入れる根拠がわからんのである。

それを見たいがために映画館に行ったりビデオを買ったりする人がいるとは思えんのであるが、売らんがなのための営業サイドの要望としても、監督の無能丸出し感満載で、ビデオや動画であればそこだけいつも飛ばすのである。

サスペンスもSFもホラーも時代劇も人情ドラマも、せーよくをかきたてたくて見てるわけではないのは当たり前であるので、話の腰がおられてうんざりするのである。

どうしても必要で表現しないと気がすまないと言うなら、ほんの一瞬でお願いしたいのである。

もう、始まりと終わりの一瞬だけにしていただきたいと思うわけであるが、そうもいかんといわれれば早送りで飛ばしてなかったことにするしかないわけであるが、映画館の場合は目をつぶって寝たふりするしかないわけである。

てなことで、最後に、けっしてあたしはLGBTの皆様にいかなる偏見も持ったりしてはおりませんということをきっぱりと宣言して本日のご挨拶とするのである。

いいわけかよ。

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